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春からギリシャ語をはじめる人へ


 春ですね。新しいことをはじめるにはよい季節ですし、ギリシャ語をはじめるのはよいアイデアだと思います。ギリシャ語ができれば、文学、歴史学、哲学、新約聖書文献学など、多くの分野で勉強・研究を進めることができるようになります。私は学部後期課程・大学院修士課程とギリシャ語史を中心に調べていましたが、人生の仕様上、研究は無期限停止状態となっています。経済的基盤が弱い、いつまでも肩書が得られない、ほかにもやりたいものがある、などなど、研究が無期限停止状態になった原因をあげればキリがありません。端的にいえば "人文系の研究者" としての才能がない、という一言に尽きると思います。他分野と比較しても芋づる式に先行研究のサーヴェイを相当な時間をかけて逐一吟味しなければならない傾向が強く、結果として正規の3年という年限で博士論文を書き上げる学生の割合はごく僅少、おまけに (トンネルの出口があるとして) 10年近く、あるいはそれ以上に及ぶ非常勤生活を余儀なくされるなど、現在の人文社会系アカデミアをめぐる素面の状況と私の経済合理性とが、先の見えない研究生活を続けることを許容しなかった、ということなのですが、それでもなお、とりあえずこの時間をなにに溶かしていたかというと、「ギリシャ語史を調べていた」わけで、得たものがないわけではありません。とりあえずこれを周囲の人たち、とりわけ後進の学生の参考にしてもらうことで、私の代わりにギリシャ語研究を志してくれる人がひとりでも登場してもらえればよいかなと思ったりします。そのようなわけで、以下では入門から究極完全態になるためのロードマップをしめしてみようかと思います。



学校文法を身につける

 まずは界隈でスタンダードとされているものを身につけなければならないので、とりあえず古典期アッティカ文法の語形変化と最低限の統語法を把握しましょう。教科書はいろいろ出ています。伝統的なものだと田中・松平『ギリシア語入門』(岩波書店)、新しいものだと堀川『しっかり学ぶ初級古典ギリシャ語』(ベレ出版) など。練習問題の分量や、語形変化表の体裁など、好みに応じて選べばよいと思います。

 統語法については、 Smyth の Greek Grammar を座右においておくべきですが、一応いっておくと、古い日本語の本で田中・松平『ギリシア語文法』(岩波書店) という本もあります。私はそれほど使ったことがないですが、チェシュコ『古典ギリシア語文典』などもあります。最後のものは歴史文法的なコメントもあって、最初の教科書として使うには重すぎますが、復習時に読むと学びがあると思います。



通史を読む

 学校文法を身につけたら、さっそく学校文法を相対化してめちゃくちゃにしたくなりますよね。まずは Horrocks, Greek を読みましょう。3部構成で、第1部が古代、第2部がビザンツ時代、第3部が現代となっています。とりあえずぜんぶ読めばいいんじゃないですかね。

 Horrocks の Greek を読み終わったら、Bakker (ed.) A Companion to the Ancient Greek Language を読んでみるといいと思います。第1部、第2部、第3部の各論文はとりあえず全部読むとして、社会言語学的な関心のある人は第4部、文学に関心のある人は第5部を読むと強くなれるのではと思います。

 第1部の Rau 論文を読むと、印欧祖語というものがあるらしいということがわかると思います。実際、ギリシャ語の不規則な挙動は印欧祖語を知っているとうまく説明できる例が多いものです。ともあれ、印欧祖語の学習に入るまえに、もう数冊、Adrados, A History of the Greek Language を読んでみませんか。これもまた通史の教科書ですが、祖語時代~古代に比重のある本で、祖語~古典古代:コイネー時代~中世:近代~現代の占める比率は大体 3:2:1 くらいでしょうか。ちょっと細かい議論もしていたりするので、わからないところはとばしながらでもいいのでは。このあたりで疲れてきたら、Palmer, The Greek Language を読んでみてはどうでしょう。ここでも最初の章で印欧祖語の話がでてきますが、さしあたりそういうものかと思っておいて、読み進めてみると、各古典作家の話なども出てきたり、コイネー・ギリシャ語の話がコンパクトにまとめられていて、ここまでの読書の整理になるかと思います。つぎ、Christidis, A History of Ancient Greek がありますが、1500ページくらいあるので通読すると気が狂うと思います。幸い(もちろん?)、論考形式なので、読めそうな論文ははやめに読んでおくといいかなと思います。これから出会うであろう多くのギリシャ語研究者の名前が並んでおります。

 とりあえず、ここまでの読書で大まかな通史はつかめたと思います。方言や祖語の話も触れられて大体のイメージをつくることができたかもしれません。



印欧祖語とギリシャ語方言に触れる

 さて、そろそろ印欧祖語をはじめましょうか。教科書は相場が決まっていて、すなわち Clackson, Indo-European Linguistics と Fortson, Indo European Language and Culture、それから Meier-Bruegger, Indogermanische Sprachwissenschaft です (ひとつでもよいですが、全て読むならこの順に読むことをおすすめします、個人的には Clackson は教科書的すぎるというか綺麗すぎるという印象はありますが)。ただ、これらを読むにあたっては言語学の基礎知識ならびに歴史言語学の方法論について少し予習しておくのがいいかもしれません。特に音韻変化の基礎づけという観点から厳密さを求め、音声学を学ぶ欲求を感じるかもしれません。個人的には(音韻論や音韻変化への接続を考慮したものではないですが)特に川原『ビジュアル音声学』や加藤・安藤『基礎から学ぶ音声学講義』が好きです。あとは、O'Grady et al. Contemporary Linguistics の第1-3, 7章あたりを読み、あとは Campbell, Historical Linguistics を読むといいかなと思います。

 印欧祖語の知識を身につけると多くのギリシャ語学の文献を面白く読めるようになります。まずは定番の歴史文法の教科書である Rix, Historische Grammatik des Griechischen を読んでいきます。Sihler, New Comparative Grammar of Greek and Latin もこのあたりで読んでいけるでしょう。

 これまでの読書で方言にかんするおびただしい記述を浴びてきたことかと思いますが、ギリシャ語はその多様な方言が魅力の印欧語です。方言にかんしても読むべき本は大体おきまりで、Buck, The Greek Dialects と、ちょっと小さくて読みにくいですが Duhoux, Introduction aux dialectes grecs anciens、 Colvin, A Historical Greek Reader、それから碑文について Bartoněk, Chrestomathy of Ancient Greek Dialect Inscriptions が役立ちます。西ギリシャ方言に興味をもったら Bartoněk, Classification of the West Greek Dialects at the Time about 350 B.C などはどうでしょう。年代は、比べる以上は史料が各地域で揃わないとやってられないので、350 B.C. と比較的くだりますが、それでもドーリス方言の多様性を知ることができるので興味深いです。西北ギリシャ方言が好きになったら Dosuna, Los Dialectos Dorios del Noroeste をどうぞ。アルカディア方言が気に入った人は Dubois, Recherches sur le dialecte arcadien が must-read です。クレタ方言は手ごわいですが、Bile, Le dialecte crétois ancien が重要文献です。方言差異が細かすぎて訳がわからなくなったときに助けてくれるのが Lejeune, Phonétique Historique du Mycénien et du Grec Ancien です。これは手元に置いておきたい本です。



むきむきになる

 ここまでの読書で通史、祖語、方言、大体どの分野でも基礎学力が身についたと思います。あとは研究テーマ、興味関心に応じて読み進めていけばいいかと思います。動詞に興味をもったら Willi, Origins of the Greek Verb を読みこめばいいと思います。アスペクト・テンスについて何もわからなくなったら、とりあえず Comrie, Aspect Tense から始めましょう。Hewson and Bubenik, Tense and Aspect in Indo European Languages もあります。

 印欧祖語の各論について興味をもったら、とりあえず新しいハンドブック、Klein, Joseph and Fritz, Handbook of Comparative and Historical Indo European Linguistics から芋づる式に論文を探すといいのではないでしょうか。総2000ページ以上ある3巻本なので個人で購入するのはつらいかもしれないですが。印欧祖語の音韻法則については Collinge, The Laws of Indo European という本があります。喉音理論については Lindeman, Introduction to the Laryngeal Theory からはじめよ、ですね。語根アオリストに執着的興味のわく人は Hardarson, Studien zum Urindogermanischen Wurzelaorist という本があります。私が語根アオリストに執着的興味のわく人だったので、読んだのですが、難しくてなにもわからなくなりました。畳音に執着的興味のわく人は、JIES Monograph の黄色いシリーズに Niepokuj, The Development of Verbal Reduplication in Indo European というものがあります。私は畳音にも執着的興味のわく人だったので、読んだのですが、難しくてなにもわからなくなりました。

 ギリシャ語に話を戻しましょう。ここまでくると、すでにギリシャ語の各方言についてそれぞれの音韻変化の歴史や母音・子音体系の骨格がみなさんの内にできあがってきたことでしょうが、それに肉づけをしてくれるのが Allen, Vox Graeca です。それぞれの字母やクラスタに対して想定される音価、発音について詳細な議論をしており、タイトルのとおりギリシャ語の響きを知るためのよき参考書となります。それともうひとつ、ここまでずっと知らぬふりをしてフワフワなまま残してきたトピック・ギリシャ語アクセントについては、Probert, Ancient Greek Accentuation があります。最後のほうで祖語をふまえたアクセント史についても言及があり、アクセント研究では必読文献のひとつとなっています。ちなみに、同著者によるもので A New Short Guide to the Accentuation of Ancient Greek というものもあります。正しくアクセントをふるための練習問題つきで、巻末にはしっかり解答も付属しているので、これはひょっとすると「学校文法を身につける」の段階でも使えるかもしれません。個人的には Appendix に各方言アクセントにかんする情報がまとまっていて有益でした。

 


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 とりあえず上で掲げたのは単行本だけですが、これだけ読めばギリシャ語にかんしてだいぶ議論ができるようになると思います。社会言語学的な関心からギリシャ語にのぞむ場合はアリストファネスなども対象になるかと思いますが、歴史言語学的な興味でテクストを選ぶ場合はホメロス、ヘシオドス、あるいはサッフォ、アルカイオスなどのアルカイック期のテクスト、そして各地方の碑文史料にもとづくことが多くなると思います。言い方を変えれば、これらの史料に出てくる語形、それも古典期アッティカ方言とは異なった語形に出会った場合、想定される祖語からどういった規則がどういった順番で適用され導出されうるのかをひとつひとつ説明してみることは、この分野でのよい練習問題となります。このことを結びに代えて、本稿を終えたいと思います。次の記事では、いつになるかわかりませんが、さらにむきむきになるまでにこれまでのギリシャ語研究史で特に必読とされてきた重要論文、ならびにこの分野での論文の探し方について、紹介してみたいと考えています。




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