古代ギリシャ語やラテン語の作品は写本や碑文、パピルス群、そのほか同様の仕方で伝わる他作家や古註による引用に依存しながら伝わっている。テクストは伝承過程で無数の改変や汚損を被るため、これが各分野の研究史料として利用されるためには本文批判 (ここではテクスト・クリティークと呼ぶこととする) という専門技術によって可能な限り改変前の状態にまで再構される必要がある。
もっとも、この作業によって得られた再構テクストが作家自身のものと一致する保証はまったくないし、作家の生きた時代まで肉薄できる期待も薄い。たとえば全写本が揃って A という読みを伝えている箇所について、われわれは A という読みでテクストを再構したとする。満足も束の間、あるとき、偶然の発見によってサルベージされた碑文がたまたま B という読みをともなう当該箇所のグラフィティを伝えていたとしたら、われわれはどちらの読みを採用すべきだろうか。文体や韻律、lectio difficilior などの定石をふまえ B のほうを妥当として再構をまた一歩進めることは大いにありえる。あるいは、ある作品の読みを考えているときに、現存の写本群によって伝えられていない情報が、たまたま残った他の同時代作品中の引用から得られたとしたら、われわれはその情報をどのように扱えばよいだろうか。この引用自体もやはり写本伝承によって現在にまで伝わっているとしたら、場合によってはこちらを疑うという選択肢もある。しかし、Quintilianus による Livius 冒頭の読みにかんする引用のように、信頼性が高く採用せざるをえない例もある。
どちらとも偶然に発見・残った史料によってわれわれの依存する写本群の読みが揺さぶられるケースであることに違いはない。校訂本を用いて古典作品を読むときにわれわれがテクスト伝承のただしさを疑うべきは Apparatus が示唆する箇所に限られない。われわれが現在入手可能な、ある校訂版が現存の状況証拠のもとでは最も合理的な読みを提供していると言うことまではできるかもしれないが、凡そ全ての語彙や箇所がわれわれに気づかれない仕方で改変を被っている恐れがある以上、読みは常に、揺るがされる可能性があるということだ。もっとも、先述の他史料のような僥倖に恵まれない以上、その疑いを何らかの実りへと結びつける一歩を踏み出すことができないというのも、また確かではあるのだが。
古代のテクストについて絶望的になることを勧めているわけではない。伝えたいことは、首尾よくテクストの再構アーキタイプ (stemma codicum のなかではオメガの文字が与えられることがふつうである; ちなみに stemma および Lachmann's method にかんしては高度な議論が多いので本稿では深入りしない) が決定できたとして、それは決してプラトンやキケロなどの直接の言葉ではないし、アレクサンドリア図書館に集められた版でもないということだ。ここを混同する古典の愛好家は多いが、どの経験の学にあってもそうであるように、古典テクストを各分野の議論において用いる際、われわれは完全な基礎づけに成功しているわけではないことを広く周知してもらいたいということである。
先日、読書会をともにしている友人と雑談をしていたとき、こういった文献学101のような講義を学部時代に聴きたかったという話になった。多くは実際の講読の傍らでテクストの破損箇所が問題となったときに、その都度のベーシックを察して知る、真似て学ぶといった程度のもので、体系性や具体性をともなった脳内地図をつくるためには自分で教科書を読み込むしかなかったというのが実際の状況だった。プロジェクターで古書体やパリンプセストを解説してくれる特殊講義のひとつふたつはあったが、なかなか文献学史・方法論を真正面から教授してくれる機会はなかった。そういった点で M さんが長期休みごとに開催している読書会 (大体一回に一行も進まない、というのは誉め言葉であるが、出不精の私などはもっと積極的に参加すればよかったと思うときもなくはない) は貴重だったのかもしれない。
当時、まずは最低限という気持ちで読んだ教科書は、以下の2冊である:
・Reynolds, L.D., Wilson, N.G. Scribes and Scholars (3rd ed. 1991), Oxford.
・West, M.L. Textual Criticism and Editorial Technique (1973), Stuttgart.
最初のものは日本語訳『古典の継承者たち』もあり、実際に読んだこともあるが、原書の緩急のリズムが殺されてしまって平板な読書感に陥りがちだった気がするので、主観的な理由だが個人的には (入手できる場合は) 原書のほうを勧める。書物の話からはじまって、古代、西方中世、東方中世、人文主義の通史に加えて、最後に本文批判にかんする記述もあり、たぶん文献学101の講義があったならばこれが教科書指定される気がする。図版は十数点あるが、それだけでは足りなかったという印象がある。West のほうは、他の方面での文献もそうなのだが、辛辣というか容赦がないというか、West 節が効いていながら、それでいてコンパクトな分量に stemma のつくりかたや contamination の話も含まれていて学習効果は高いと思う。
文献学史については他にも must read な文献があるのだが、こちらは Palaeography を学んでからでないと深い枠組みづくりと理解という観点から効率的ではないと振り返ってみて思うので、一度こちらの方面の本を挟むとよいと思う。すなわち:
・Thompson, E.M. A Handbook of Greek and Latin Palaeography (1966), Chicago.
である。通読して最低限のことは学んだが、実際に多くの写本の字体を調べる経験を積まないと本当の意味では身につかない実技教科というか、高等技術だなと感じた。くずし字を読む能力を体得するのと同じことなのだから。積極的にそれらを調べなければならないテーマを扱っていなかったというのもあって、動機も弱かった。そのうちテクスト・クリティークの実際についても無闇に教科書を何冊も読むより、何か扱いやすい古典作家のなかから適当な作品を選んで、テクスト校訂を逆にたどる作業をしてみたほうがよいと感じはじめたのを覚えている (それゆえ、この方面の読書が hiatus に入った)。実際に何かの作品を決めて、主要写本を眺め、校訂者がなぜある読みを選び、ある読みを排除したのかを考えるのは面白い。インターネットで閲覧できる範囲で試してみることをおすすめする。eliminatio codicum descriptorum によって除かれた写本やパピルスまで戻るのは大変だが、いくつかでも閲覧できれば、Apparatus に含まれない些末な理由 (iotacism や書体上の可読性など) から gloss の混入まで、机上で学んだ事項に対する方法論的知識を実物を通じて深く学ぶことができるほか、それらのつくられた場所や年代を吟味する作業を通じて Palaeography の実戦練習にもなるし、stemma がつくられる過程も (ごく小さく、テクニカルな困難のない作品であれば) 追えるので1冊の本を読むより多くのことを学べると思う (たぶん認知的に効果のある学習って、こういう過程を踏むものだと思う)。Palaeography のほかにも、このあたりは Codicology しかり Papyrology しかり、古銭学のように「目立たないが非常に高度な専門分野」が連峰を形成しており、それらが絡まっているので、まさに自分自身で歩いてみるのがふさわしいエリアなのかなといった心象を抱いている。
古典読みには多かれ少なかれ自分なりのテクスト決定能力が求められているのは確かだと思う。ある校訂本にしたがうのは簡単だ。重要な異読にかんしてはコメンタリが言及してくれることもあり、どうしても文献学的に読み、考えるという動機をもつ機会は限られがちだ。しかも、校訂本に反抗するには stratospheric な能力が求められる。先述した文献学の基本知識に加えて、その作家の文体や思想 (テクスト伝承の確実性が先にあって文体や思想が後にくるのだから、この表現は循環しているのだが、伝承の確からしさについて蓋然性の高いところから入っていくことで当分は満足するしかない (だから、究極的には蓋然性の高さをどうやって決めるのかが問題となる)) をも含めた高度な解釈が必要となるからだ。さらにいえば、実際に自分の眼前に写本や古註などから得られる凡そ全ての情報を揃えて一通りの方法に目配りをしたうえでも妥当な読みが定まらず、自らの conjecture を提示せざるをえないと判明した際、それは本人の直観、つまりこれまでの古典学における経験をよりどころとしたものになる。熟練もまた必要となってくるのだから、先達に勝つ見込みはますます薄れてゆく。
しかし、冒頭で示したとおり、古典の分際を弁える (まさに critique, Kritik の和訳として丁度よい語だ!) ためには誰であれ、できる範囲で、文献学的に読み、考えるという姿勢くらいは最低限、求められてしかるべきだと思う。眼前に古典作家の作品があるとして、それは崇拝の対象ではない。そして、その作品のうえに霞む古典作家の距離は、まさに文献学的方法によって測られるのだ。この方法は究極的には良識と経験にもとづいた判断と弁別にゆきつくし、先に紹介した2冊の著者たちの叙述もこの点については一致している。私が参加していた文学部での Politeia 講読での体験もまた、これらに共鳴している。担当の N 教授はテクスト校訂がある種の職人技である旨のことを告げるなかで、Boter の言葉「この Slings 校訂による新しい OCT 版を得てもなお、テクストの決定は私たち読み手の責任である」を教えてくれたのだから。
語学愛好家にとどまるのは簡単だ。どこかから警句や箴言を引っ張ってくるのも、その天真爛漫さはほほえましい。ただ、ここから一歩踏み出して、古典作品にもとづいて何かを研究したり解釈したりする場合は、先に述べた基礎づけの問題、すなわちテクスト・クリティークに大なり小なり踏み込むことになることは知っておいてほしい。文献学者による土台づくりの上に、文学者による解釈、歴史学者への史料提供、言語学者による用例引用などが成立するなどといった単純な図式は実際には存在しない。テクスト校訂には歴史言語学の知識が有用なこともあるし、私は優れた歴史学者が同時に非常に卓越した文献学的自覚をそなえている姿をいくたびも各史学の分野で目撃してきた。そういうわけで、本気でギリシャ語・ラテン語をやりたい人は、ある種の文明史に触れる機会になることを鑑みても、文献学史・方法論のかんどころを調べてみても損はないと思う。